LIFE IS BEAUTIFUL@HK /JP 25年ぶりの日本暮らしとお仕事、旅…

日々色々なことはあるけれど「人生は美しい」と言い続けたい。

【プロフィール】聞き分けのよかった子供時代、でも海外に行きたい思いはゆずれなかった…①

 

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大阪生まれの大阪育ち。

子どもの頃は、聞き分けがよくていい子で、ちょっと泣き虫

いつもニコニコしているとよく言われてました。

地元がわたしの世界で、大阪がわたしの世界で、

世界は遠くにあって…ただ憧れの場所でした。

 

しかし、ある時オーストラリアのことが書いてある本に出会います。赤茶けた大地好き抜ける青さの空色とりどりの珊瑚、そして、亜熱帯のトロピカルジャングル。わたしは、この時からオーストラリアという国に虜になりました。オーストラリアの関連書を読み漁り、この地へ行きたいという思いが熱く湧き出てきたのです。

 

この日を境にわたしは「自分の意思を通す頑固な子」「自分の意志は曲げない子」だと言われるようになりました。

 

そんな私の半生記、数回にわたって書きます。

よかったらお付きあってくださいね!!!

 

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1.聞き分けのよかった子供の頃

幼少時代のわたしは、体が弱くて病気がちで小児喘息持ち。今とは違って食が細く、小柄で華奢な子でした。両親はわたしの健康状態にはかなり気を使っていたようで、食べるものはいつも健康的なものでした。

 

両親は当時大阪市内に住んでいましたが、わたしの喘息が良くならない為、同じ大阪ではあったのですが大阪の南に引っ越ししました。大阪と言っても当時、周りは田んぼだらけ、そして、あちこちに古墳があるような歴史ある街でした。自然豊かなこの街はわたしの地元となりました。

 

引っ越しの後、喘息の発作は出なくなります。環境の力ってすごいですね。おかげで小学校時代は、友達と一日中遊びまわる、そんな元気で自由な子供時代が送れるようになっていました。

 

地元では、年に一度の地元の秋祭りがあるのですが、その期間中は地元中が賑わいます。子供ながらにお祭りが大好きでした。

 

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そんな小学校3年生の頃、このお祭りの日にわたしは体調が悪かったのですが、お祭りに行きたくて、自分でも無理してお祭りに行ったのです。お祭りは本当に楽しかったし、気力があったんでしょうね。でも、家に帰ると高熱が出て寝込んでしまいました。

 

目を開けると天井がグルグルまわり、立てなくなってしまったんです。様子がおかしいと気がついた母は、翌日、わたしを病院連れて行きました。診察の後、様態がよくなかったようですぐに点滴をされました。初めての点滴に「わたし死ぬのかな?」と涙したことを今も思い出します。そして、検査入院。

 

その後、医者から腎盂腎炎にかかったと告げられます。あの時は9歳か10歳のころ、子供ながらに「自分が無理したばかりに病気になってしまって、家族にも迷惑をかけてしまうことが悲しくなりました。もう少し遅かったら、透析が必要なほどまで様態が悪かったのです。

 

それから、2年以上完治するまで病院に通う日々が続きました。学校でも体育の授業に出れなくなったり、無理はしてはいけないといつも言われていました。特に母には病気用の献立を別に作ってもらったり、病院への検査もよく付き添ってもらい。大変な思いをさせてしまったなと思います。

 

ちょうどその頃、母と父の関係が悪くなっていました。離婚をすることはありませんでしたが、母がいつも我慢をしている様子を見て、わたしは「母を苦しめない」「助けてあげたい」いつもそう思うようになっていました。

 今、思えば、あの時から意識するにしてもしないにしても「いい子」でいることを選択したのかもしれません。「それが一番いいことだ!」と…

 

2.男子よりも厳しい訓練のバレーボール部

2年の治療の末、腎盂腎炎は完治しました。運動をしてもよいとお医者さんから承諾が下りました。すべての新しいことにワクワクしました。

 

当時、1980年代はバレーボールが流行っていて、私もバレーボールに憧れたものです。あんなプレーをしてみたいと...しかし、希望に燃えて入ったクラブも1週間たたないうちに萎えそうでした。

 

先輩後輩の厳しい規律、訳のわからない規則(たくさん)、そして、入部した時には知らなかった鬼監督の存在鬼の訓練。結局、40人程の入部者のいたバレーボール部も夏になる頃には20人以下になっていました。

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以外にも?負けず嫌い,根性はあるのかも?ということに気がついた私は、その後、中学から高校時代も超厳しいというバレー部に所属し、男顔負けのトレーニングをし、弱かった体も体力がついたおかげで強くなり、人並み程の強靭な体になっていきました。

 

特別うまいとは思いませんでしたが、レギュラーとして試合に出ることが出来、学校で行われる体育関係の大会ではいつも良い結果を出すことが出来、マラソンでも常に上位でいることが出来たことは、やっぱりうれしかったです。

 

幼い頃を知る両親は、鬼監督の厳しいしごきでここまで強くなれた...と喜んでいました。でも、あれ以来...わたしはよっぽどのことがない限りバレーボールはしていません(笑)

 

この当時の写真を見るとまるで男の子のようです。実際に男の子と間違われたこともありましたよ。

 

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3.進学よりも働く道へ

学生時代は、人並みに恋愛もし、勉強もしましたが、バレーボールが常に再優先。

「男は裏切るけど、バレーボールは裏切らない。」と当時好きだったクラスメートとのお付き合いを諦めたエピソードもあります(男女交際禁止のクラブでした...)。

時々、お付き合いしてたらどうな風になっていたんだろうなと、妄想しましたけど...

 

その後、わたしは進学の道よりも、働く道を選びました。

当時は、バブル真っ盛りの世の中がとても華やかで、何もかもうまくいく...そんな空気が世の中を覆っていたように感じます。

 

わたしは、人と接することが好きで、喜びを感じていたので、それを仕事にできる仕事を探しました。ホテル等は憧れがあったのですが、なぜか両親に反対され...わたしは当時とても景気のよかった百貨店に入社したのでした。

そして、女ばかりの職場に配属されました...

 

(続く…)

 

ろみい

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