今日は、このHatenaBlogでブログし始めて1ヶ月になりました。毎日書こうと意気込んでいましたが、この1ヶ月で書いた記事は26記事だけ。しかも、書いた日数は18日だけという目標と行動が伴っていなかった1ヶ月です。書きたいことはいっぱいあるのに追いついてない状態です。恥
そんなわたしですが、今回はこれから本格的に書いていきたいなと思っている「わたしの自己紹介・プロフィールストリー」を勝手にやらせていただきます!
(長いですけど読んでくれたらうれしいです。)
※オーストラリア・パース近郊の砂漠で
略歴
・1970年代 大阪生まれの大阪育ち。
・高校卒業後、某百貨店で受付・顧客サービス部にて4年間働く。
・その後、オーストラリアへ。
英語語学学校の勉強の後、バックパックーを背負い
オーストラリア1周のひとり人旅へ。
・オーストラリアでのバックパッカーの後、世界1周を計画し旅に出る。
・旅の最終地となった香港で今の旦那と出会い、半年後結婚。香港へ移住。
・結婚後の10年間は主婦業。
・30代半ば。某日系香港支社にて再就職。香港・中国・日本を行ったりし、インターナショナルな環境の中、CSを経てマーチャンダイザーとして働く。プロジェクトリーダーのひとりとして抜擢。商品担当の管理職。9年目に老人性痴ほう症を発症した姑の介護をきっかけに後に会社を退職する。
・現在は、末期癌と闘病していた母を見送り。自分自身に一区切りがつく。
新しい道を模索中(だけど、躍進中なのです)。
プロフィールストリー
幼少期~学生時代
幼少期は体が弱く。10代から始めた部活動(バレーボール部6年間)でかなり体も心も鍛えられる。
この時代は、未だと体罰と言われるようなこともあったけど、それが普通だと思うところもあったし、監督は自分の生活を犠牲にしてまで部員の為に頑張っているのは伝わっていたし、何よりも愛情を与えてくれてましたね(家族は今思えばかわいそうだったかもしれないけど)。
部活で忍耐と根性は培われたと思います。笑
10代までは、どちらかというと「自分が世界に合わせないといけない。」と思っているところがあって、時々、自己主張するものの、自信があまりなかった時です。
その時の様子を書いてます↓
4年間の社会人生活
私が社会人として勤め始めた頃は、バブル絶頂期と呼ばれた頃。着る者も化粧も派手で、社会全体がものすごく活気があった時。会社の部署は全員女性では、皆すごく美人でモデルみたいな人ばかり。
仕事自体はとても充実していたし、周りの先輩、同期、後輩にも恵まれていました。友達関係も恵まれていたのに...いつもなぜか何かに「飢え乾いて」いたようでした。
その時に出会ったのがオーストラリア。
「行かなきゃいけない。何かが変わる。」
この思いは確信でした。両親に反対されてもあきらめませんでした。
そして、とうとうチケットを購入してオーストラリアへ飛び立つのでした。
この後のわたしの人生は大きく変わっていきました。
オーストラリア時代&バックパッカー時代
語学学校に通っている間は、徹底的に英語の勉強をしました。
一番最初に感じたのは「英語の知識があっても英語は全く通用しない。」ということ。
人生で一番勉強しましたね。笑
あの時の努力は自分でも褒めてあげたいほど、英語力は随分とUPしました。
いろんなところへ行き、今までしたこともない経験、今まで見たこともない景色、
今までは関係を持つこともできなかっただろう新しい出会いと関係、
そして、今まで知ることの出来なかった自分に出会いました。
日本の常識は、世界では常識ではない。
そんなことをたくさん教えてもらった旅。
自分が自分らしくあればいいと教えてくれた、オーストラリアで出会った人たち。
わたしの価値観は大きく変わりました。
旅の途中、ファームで働く人材を1人募集している広告を発見しました。そこが日本人にはメジャーなところではないと分かって、「英語のスキルアップにも、経験にも絶対ここで働きたい!」そう思った私は、電話で働きたいから面接をお願いできないかとファームのオーナーへ連絡しました。
その時の自分の売り込み
「わたしは日本人です。英語はこの通りです。乗馬も出来ますし、馬の世話も出来ます。動物は好きですから仕事は何でもします。また、接客業のプロです。
おたくのファームは欧米系の方しか来られないと聞いていますが、わたしを雇うのでしたら日本人やアジア人のお客さんも呼ぶことが出来ます。お望みでしたら...
わたしを雇って、損はさせません!!!」
結構、大胆なことを言ったと思います。
その翌日、ファームのオーナーが1時間をかけて面接をしに田舎から街に出てきてくれました。食事をしながらの面接でしたが、その場で即決してくれ、わたしはその後そのファームで3か月働くことになりました。
それはそれは、素晴らしい体験でした。
※ファームでアメリカから来た若者たちと…
オーストラリア1周の旅を終え、私は次に世界一周の旅を計画しました。
そして、オーストラリア⇒ブルネイ⇒シンガポール⇒マレーシアとどれだけゆっくり旅するの?というくらい時間をかけて村々・街々を旅していきました。
そして、マレーシアのペナン島に着いたとき、旅を終わりにしようと思いました。
香港を旅の最後の地にして、日本へ帰ろうと...
当時、時間をかけての旅が反対にマンネリ化してきてました。旅で新しい場所を見るよりもその時は、日本で新しいことをしようと思ったのです。
旅の最終地香港…
旅行だけで終わらすつもりだったんですが、そこで素敵な男性と出会ってしまいました。後で聞くと彼も一目で恋に落ちたらしいですから、運命だったんでしょうね。
今の旦那さんと出会います。私たちは半年後に文通、電話、互いに行き来し、結婚をしました。
香港主婦時代
わたしたちはすぐにこどもを授かりました。
香港では、その時期バブルの真っただ中の住宅費高騰の時期。余裕のある生活を少しでもしたいなら共働きが一般的でした。
私たちの家計には余裕はそんなになかったのですが、それでも、わたしは息子が生まれてきた時に自分でこの子を育てたい!と思いました。
仕事に関して社会的な不安がなかったのかと言えばうそになるけれど、この時の最重要事項は、生まれてきてくれた息子と年子で生まれてきてくれた娘でした。
旦那の理解もあり、わたしは10年間という間専業主婦をしていました。旦那さんの理解は今でも感謝しています。そして、本当に幸せな時間をもらいました。
大きな責任も与えられた飛躍のワーキングママ時代
その後、旦那が転職することになり、しばらく収入が途絶えました。そのことをきっかけにわたしは、再就職をすることを決めました。
社会人としては10年のブランク。しかも、年齢は30代も半ば...雇ってくれるところがあるのか心配でしたが、就職活動を始めてから、幸運にも短期間で仕事を得ることが得来ました。
しかし、10年間のブランクと新しい職種ということでお給料はとても低かったのですが、当時は「やるしかない!」と思いました。
その後、働いていくにつれて決して優秀ではなかったのですが、周りの人たちやスタッフの皆のおかげでリーダー、プロジェクトリーダー、課長職を与えられ、日本と香港、中国の各地を頻繁に行き来するようになりました。あるプロジェクトでは海外拠点のリーダとなりました。
仕事は、ハードでした。でも、新しい挑戦、知識が増えること、そして、実際には物つくりに携わっていましたが、商品を高品質、納期までに仕上げ、クライアントに満足してもらえる時には本当に喜びを感じていました。
仕事にはやりがいを感じていました。退職するまでこの仕事を続けられたら...
そんな風に思っていました。
そんな仕事を始めて8年目。姑が老人性痴ほう症を発症し始めました。いえ、以前から兆候はありました。彼女は自分のことがどんどん出来なくなっていくのですが、病院に行かせることも難しく、本当に大変な時期を過ごしました。
その後、救急車で運ばれ入退院を繰り返しました。姑の介護、自分の家のこと、そして、仕事と体力も精神的にも限界でした。
当時のわたしは、週の半分以上は香港にいない生活を送っていました。
おまけに旦那は、単身赴任で海外(香港にいない)に8年程行ってたのですが、一か月に1度帰ってくる生活。当時、香港の家庭に起こってくることは、すべての判断や責任はわたしの手にある状況下でした。
わたしは悩みに悩んだあげく仕事を離れることにしました。当時、お給料も役職も部下たちも、積み上げてきたものも...すべて奪われるような思いでしたが...
当時の私の「総合的判断のBest」と思われる決断でした。上司にも止められましたが、一度決心したことはかえませんでした。
姑の介護・両親の病・母の末期癌
姑の介護を初めて、しばらくすると姑は老人ホームに入居できるようになりました。
そこから、時間も経たないうちに、日本にいる実家の母が癌ということがわかりました。
この時は、母にとって2度目の癌の宣告でした。
しかも、その時には...重複癌で末期癌。ステージ4と宣告されました。母の意思を尊重し、そして、医者とも十分納得がいく治療、方法で母の癌の闘病を支えることになりました。
母と過ごす時間、実家の手伝いのため...日本を行き来する生活が始まりました。母は一時は癌がなくなったと思えるくらいの時がありましたが...
今年の2017年4月にこの世を去っていきました。
仕事を退職してから、介護、看病、日本と香港の行ったり来たりの生活、母の死...
そして、今年の夏の帰省で少し父が落ち着いた様子を見て、私の中にも区切りがついたような気がしました。
そして、これから...新しい道への始まり
大切なことの為に生きていきたい
大事な人をたくさん見送ってきました。弟も母も...もうこの世にはいません。
私は、弟が亡くなった時に「弟の分も生きる!」と決心しました。
でも、いつしか彼にはなれない。わたしが幸せになることが弟の願いと思うようになりました。
40代も後半に差し掛かってくると、自分にとっての価値観が以前よりもハッキリと分かります。何が大事でそうでないか。何が価値があってそうでないか。
経験を通して...
母の死、そして、大事な人たちの死を通して...
大切なことを教えてもらいました。
だから、もう余計なことはなるべく削ぎ落して生きたいと思ってます。
せっかくだもの楽しく、明るく、幸せに生きたい!
辛いことも悲しいことも苦しいこともある。でも、いいことはもっとある。
悪いことばかり焦点を当てるんじゃなくて、人生の中の美しいこと...
楽しいこと、明るいこと、幸せと思えることに焦点をあてていきたいと思う。
最後に:人生は美しいと言いたい。
自分の人生の最後が来るときに後悔はしたくないと誰もが願うもの。
でも、その日はいつ来るかわからない。
だから、今日という日を大切にいきたい。
そして、挑戦しなかったことを後悔しないために
今、温めているいくつかの夢、やりたいことは全部していきたい。
この「わたしプロジェクト」。
今、温めています。まだ、未完成だけど確実に前進してて
計画をひとつひとつ進めています。
皆さんにまた、報告する日も近いかもしれません。
最後は、なんだかだらだらと書きすぎました。
長すぎる自己紹介(プロフィールストリー)に
お付き合いいただいてありがとうございました。
どうかこれからもよろしくお願いします。
ろみい